がた、がたと襖に人がぶるかる音が続き、ハジメは音のほうに畳の道を走った。
靴下がどうにも滑るが、そんなことを気にしている暇はなく、長い廊下を曲がり、中庭がしつらえられているのを横目にどたどたと走る。
靴下がどうにも滑るが、そんなことを気にしている暇はなく、長い廊下を曲がり、中庭がしつらえられているのを横目にどたどたと走る。
ハジメはすぐのその部屋に到達した。
がたがたという音に混ざり当然と男の引きつった悲鳴が襖から漏れてきたのを聞き、荒っぽく襖を開き素早く視線を走らせる。
がたがたという音に混ざり当然と男の引きつった悲鳴が襖から漏れてきたのを聞き、荒っぽく襖を開き素早く視線を走らせる。
「―あら」
照明も何もつけていない十二畳はあろうかという座敷からは井草とかすかな線香のにおいがした。黒髪が振り返るとその空気はいっそう濃くなったように感じたが、ハジメはそれが錯覚だとは自覚した。
先ほどの栗鼠のような黒目がちな瞳をした喪服の女の唇が笑みとなっている。
ハジメは男の悲鳴が失せ、襖も震えていないことに呆然として、座布団に座って仏壇を拝んでいたらしい女の背を眺めた。喪服には見事なまでの蓮の家紋が抜かれ、庶民の一張羅とは雲泥の差がある美しい黒の中で清清しい。
ハジメは男の悲鳴が失せ、襖も震えていないことに呆然として、座布団に座って仏壇を拝んでいたらしい女の背を眺めた。喪服には見事なまでの蓮の家紋が抜かれ、庶民の一張羅とは雲泥の差がある美しい黒の中で清清しい。
「基前さん?」
ハジメは女の顔をまっすぐに見据えたが、本能的に部屋に入りその部屋三方を囲む襖を次々と開け放ったが、そこには誰もいないばかりか物音もなかった。
耳を澄ましても音の気配はなく、ハジメは思わず背後の箱庭を睨むように観た。灯篭が立ち並び、まだ日の高い青空を区切って竜胆が頸をもたげている。
耳を澄ましても音の気配はなく、ハジメは思わず背後の箱庭を睨むように観た。灯篭が立ち並び、まだ日の高い青空を区切って竜胆が頸をもたげている。
「どうなさいましたの? お顔の色が真っ青ですわ―」
背後ですくりと立ち上がった女がくすくすと笑うように言ったが、その言葉の端々にこぼれるのは先ほどまでの子供じみた様子ではない。一種狐狸妖怪めいたまでの完璧な品のよい物腰で、立ったときの気配も衣擦れの音がかすかで美しい動きだったと思わせた。
「奥様。あの、今さっきこの部屋でおかしな音がしていましたが」
ハジメはその態度の変貌に驚いたが、本人に言うのも失礼なので触れず、用件をきびきびと言った。女の栗鼠のような瞳は大きさを変えず、眼の縁だけがしなるように細まる。
「そうかしら。気のせいじゃなくって? 随分と長い間私はこちらで拝んでいましたけど、音なんてしませんでしたわよ」
「妹さんはどちらで」
「あの子は気分が悪くなってしまったと言って、部屋に戻りました」
「あの、奥様、でも…」
「妹さんはどちらで」
「あの子は気分が悪くなってしまったと言って、部屋に戻りました」
「あの、奥様、でも…」
反射的に低く反論したハジメだったが、さえぎるように女が大声を上げておかしくてたまらないという風に笑い声をたてたので沈黙した。ハジメは笑い続ける女の理由がわからず、だんだん不愉快になりながら笑いがやむのを辛抱強く待ったが、長々と続く笑いにとうとう痺れを切らした。
「何がおかしいんですか」
「ふふ、うふふ、…あは、はあ、いやだわ―奥様、ですって。奥様ですって」
「何を言ってるんですか」
「わたし、ちゃんと名前がありますのよ」女は上機嫌に笑っていた瞳を睨みつけるようにして、視線がたいして変わらないハジメの瞳を覗き込んだ。「飯塚千鶴と言いますの。」
「ふふ、うふふ、…あは、はあ、いやだわ―奥様、ですって。奥様ですって」
「何を言ってるんですか」
「わたし、ちゃんと名前がありますのよ」女は上機嫌に笑っていた瞳を睨みつけるようにして、視線がたいして変わらないハジメの瞳を覗き込んだ。「飯塚千鶴と言いますの。」
どうして今更名乗ったのか判らず、ハジメは怪訝そうな顔で舌打ちまでしたが、女の上機嫌はそのままで頸をかしげてこちらを見返してきた。
また笑いが唇からかすかにこぼれてきたので、ハジメは適当に場を濁して部屋から出た。
また笑いが唇からかすかにこぼれてきたので、ハジメは適当に場を濁して部屋から出た。
―その十分後、若い女中の悲鳴とともに屋敷の最南端たる勝手口にて当主の死体が発見された。